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働く私と、走る私。

18回産業論文コンクール     努力賞
     佐藤薬品工業株式会社  平田由佳 氏
    
                 『 働く私と、走る私。 』

 

 2020年春、入社後初めての上司との面談。
 『スポーツで全国優勝をしても薬は売れないよ。それでもあなたがこの会社で競技をするのであれば、目的をしっかりと見つけなさい。』
 この言葉が、今でも忘れられない。
 現在入社3年目の私は、製薬会社に勤めながら、実業団選手としてマラソン競技にも取り組んでいる。実業団選手というと、仕事量や勤務時間を優遇してもらい、多くの時間をトレーニングに充てられるような勤務形態をイメージされるかもしれない。
 しかし、私が所属している実業団チームは、全員が一般企業でフルタイム勤務をし、その企業から給与とは別に活動資金を支援してもらうことで競技を行うといった、新しい仕組みのチームである。
 私は高校・大学の7年間陸上競技部で長距離走に取り組んできたため、この経験を生かすことができる職場で働きたいと考えて就職活動をした。
 そして、競技を継続するための支援もしていただける現在の会社と出会い、意気揚々と臨んだ入社後初めての面談。上司から伝えられた冒頭の一言に、衝撃を受けた。
 なぜなら、入社前の私は、競技で良い実績を残して、会社の名前を広めることが一番の貢献になると考えていたからだ。
 この面談以降、私は働きながら競技を継続する意味を考え始めた。
 「何のために走るのか?」
 これまでの人生でたくさんの人に繰り返し尋ねられてきた質問の重みが、一段と増した瞬間だった。
 この突発的な難題に対してすぐに答えを見つけられなかった私は、ひとまず仕事と競技の共通点を探すことにした。その共通点を改善することが出来れば、差し当たっては両者の両立が実現できると考えたからだ。
 私の仕事は倉庫内での肉体労働であり、毎日納品される薬の原材料を運搬・整理することである。

 入社してしばらくの間は、終わりの見えない単調な作業に気が遠くなることもあった。
 しかし、マラソンの練習に目を向けると、仕事以上に肉体を酷使し、2時間以上走り続けるような単調な練習も難なくこなしているではないか。
 これらの違いがどこにあるのかを考えた際に、それは目標設定の視点にあるのではないかと思い当たった。
 マラソンの目標は自己記録を更新するというプラスの精神に基づいている一方で、仕事の目標はミスをしないといったマイナスを無くす精神なのである。
 そこで、私は仕事の上でもプラスの目標を立てようと考え、「どんなに小さなことでも、毎週1つ、前週よりも良くなったポイントを探す」ことにした。
 その結果、日々単調に見えた仕事の中にも小さな変化があることに気付くことができ、常により良い方向へと意識を向けることができるようになった。
 また、以前までの私は、仕事と競技の両立を考える際に、どちらか一方を我慢して他方に注力する、といったマイナス寄りの思考に陥っていた。
 しかし、実際には仕事と競技の接点や共通点は多く、アスリートの私だからこそ提言できることもあるのではないかと考え始めるようになった。
 これまでは別人だと考えていた「仕事をしている私」と「アスリートの私」が、一つの線で繋がり始めたのだ。
 ここで、「デュアルキャリア」という言葉を紹介したい。
 これは、アスリートとして必要な環境を確保しながら、現役引退後のキャリアに必要な教育や職業訓練を受け、将来に備えるという考え方である。(*1)
 一般的に、実業団に所属しているアスリートは、フルタイム勤務ではなく、労働時間を短縮して競技を行っている場合が多い。これは、働く事で身体が疲労し、競技に支障をきたす懸念があるからである。また、特に競技力が高い選手の場合は、練習に割く時間や身体のケアをする時間など、競技を中心とした生活をする必要があるため、働くという事がデメリットだと捉えられる傾向にある。
 しかし、近年は経営状況などの問題から、実業団チームの廃部や縮小が増え、退部を勧告される選手も多い。では、そういった選手達は、その後はどうなるのか?
 企業によってはそのまま正社員として在籍させてもらえることもあるが、それまでほとんど仕事に携わっていなかったアスリートが、引退してすぐに周囲と同じ水準で仕事をする事は難しい。
 また、競技年数が長くなるほど、年次が高い割に社会経験が乏しいというギャップに苦しみ、会社を退社する選手も少なくない。
 現在、奈良県内にもサッカーや野球、バスケットボール、バレーボールなどのチームがあり、1つの企業でチームを運営している場合もあれば、複数の企業から集まったアスリートで活動しているチームもある。
 企業単体でのチーム運営には手が出せないが、個人のアスリートであれば支援ができるという企業もあり、県内でもアスリートの雇用が増加している。アスリートが、競技実績だけではなく、競技を通して得た知識や人間性を必要とされる場が増えたり、競技を通じて企業に貢献できているという自己認識を獲得できれば、引退後も企業に在籍して働きやすくなるはずである。
私が所属しているチームも、引退後も引き続き同じように仕事をすることができる環境が整備されている。また、仮に別の道を選んだ場合でも、仕事と競技の両立を目指す中で身についた精神力や、仕事の中で得られた知識や経験は、その後の人生に生かすことができるだろう。
 デュアルキャリアという観点において、私は環境に恵まれていると感じる一方で、何か会社に還元しなければならないという使命感を強く感じている。
 毎日仕事を通じて、同僚に競技について理解してもらえる機会が増え、さらに応援までして頂けると、凄く嬉しい。また、普段運搬している原材料が製品として出荷され、ドラッグストアなどで売り出されている光景を見ると、嬉しく感じる。
 私の一番のテーマである「この会社で競技をする目的」については、未だ明確な答えは出せていない。しかし、競技だけではなく仕事の中でも小さな喜びを積み重ねていく中で、自然とその答えが見つかるのかもしれない。

<参考文献>

(*1)スポーツ基本計画 2012年 文部科学省

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