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ポートレイト・イン・ワーク

第4回産業論文コンクール 努力賞
小山(株) 新井 由佳さん

高校生の頃に、海外ドラマ「ビバリーヒルズ高校白書」をNHKで見ていた。セレブなんて言葉はまだなかった時代だ。ドラマの中で描かれる、圧倒的に豊かな青春はまぶしくて仕方がなかった。
私と同じように海外ドラマが大好きで、毎週見ているクラスメートがいた。私たちは退屈な授業の合間に、ビバヒルについて熱く語り合った。その話の結論は、いつも要するにこういうことだ。
「子供のころ、オーディションでよくビバリーヒルズにきて思ったわ。なぜここに住めないんだろう? あのカッコイイ車を運転しているのは、なぜわたしじゃないの?ってね」(ジェシカ・アルバ、ハリウッド女優 *引用)
私たちはどうして私たちの青春はビバヒルみたいじゃないんだろう、どうやったら自分もそういう生活ができるんだろう、と真剣に考えた。だがそうやって思考することは疲れる。私はすぐに飽きてしまった。まぁ、自分には無理だろうと思ったからである。
しかしクラスメイトは違った。頑張りすぎてしまったのである。
私がビバヒルを見るのを止めた頃、クラスメイトは体調を崩して学校を去った。
高校を卒業して文学部に入ってからも、私はずっとそのクラスメイトのことを考えていた。
高校の時の教師は「大学にさえ入ったらバラ色のような青春が……」なんて言っていたが、大学生の私の目の前には相変わらず瑣末な問題が山済みで、忙殺されていた。そこにはドラマのようなブランドンもディランもキャシーも不在で、あの「オレンジ色したカリフォルニアの太陽」のようなまぶしい青春なんて、遠い異国物語であった。
ご理解頂けるとは思うが、私が言いたいのは「アメリカに生まれたかった」という愚痴ではない。そして海外留学すれば解決するような単純な問題ではない。
どうして私の青春は天然色ではなかったのか、そこが重要な問題なのだ。
己の現状と、なんとはなしに感じる時代の閉塞感でイライラしているちょうどその頃だ。海外ドラマ「セックスアンドザシティ」が日本上陸した。
過激なドラマタイトルに「もしや」と思って調べると、やはりビバヒルを作ったテレビプロデューサーが製作していた。働くシングル女性四人の友情が描かれ、毎回、恋愛本音トークが炸裂する。とにかくファッショナブルで斬新なドラマだった。
それを見て私は確信した。
「資本主義社会においては、働きさえすれば多くの問題が解決する!」
ドラマに出てくる洒落たインテリアも、素敵なネックレスも、マノロ・ブラニクのハイヒールも、ありえないほどカラフルな洋服も。全てドラマの登場人物たちが自力で稼いだお金で購入していた。
今さらビバヒルのようなセレブに生まれ変わることはできない。だからこそ十代の私は諦めの境地に至ったのだが、働いたらマノロ・ブラニクの靴……は高すぎて無理だが、それに似た靴なら買えるだろう。あのスタイリッシュなライフスタイルが手に入る。青春はこれからだ。
そう思ったのである。
物欲から始まった私の「働きたいなぁと思う」願望達成は、就職氷河期や個人的な事情によって難航した。困難な状況下で、はなから無きに等しかった自己肯定感は、ますます薄れてしまい、次第に友人に愚痴ることが多くなった。
一時期なぜか私と同世代の若い作家が多く誕生する、日本文学界の変なブームがあったが、その作家たちが当時の私の現状を、このなんとも言えない閉塞感をうまく表現していないように私には思われた。もどかしくて仕方がなかった。
現状打開のために、短期の仕事をしながら私は小さい頃からの夢をしばらく追いかけることに決めた。誰も表現しないなら、自分でやろうと思ったのである。端から見ると、大卒後の私は迷走しているように見えたらしい。ずいぶん心配されもしたが、私は文章を書きながら、バイト先のコールセンターでも、本屋でも、水を得た魚のように働いた。
ある時、ご来店されたお客様から「すみません、本を探していて。いつき……えぇとなんだっけなぁ、あの本のタイトルは」と言われた瞬間に「お探しの本は五木 寛之の『林住期』ではございませんか。ご案内致します」と笑顔で答えてしまうので、何度もお客様に驚かれた。
ベストセラーの本はタイトルと作者を必ずチェックしていたし、他にも検索機では探すことが困難な本を、当時の私は探すことができた。
初めてのお給料で、iPodを買った。
自分の夢がひと段落ついたところで、私は短期で働くことを辞め、正社員を目指し就職活動を始めた。
最初に面接に行ったのが小山株式会社だ。そして面接の次の日から出勤し、現在進行形で働いている。
事務なので仕事内容は、ほぼ毎日一緒だ。私にとって仕事内容よりも大変なのは、一緒に働く人とのコミュニケーションだった。
それまでの私は、気持ちの赴くまま自由快活に話をしていたので、仕事でも自然とそのようになってしまい、何度も職場の所長に話し方で注意された。
全く自分では気がつかなかったが、母にきいてみたら、私は小さい頃から独特の話し方をしていたらしい。そういえば自分の人生を振り返ってみても、話し相手が自分の話を理解していないであろうと思うことが多々あった。こんなに伝えたいのに、うまく伝わらないもどかしさ。
入社してすぐの私は、するどい指摘にひるんでしまい、方々へ「どうしたらいいのか」を相談した。職場の先輩も親身に話をきいてくれた。そんな先輩方のためにも、ここで諦めて辞めるわけにはいかなかった。だって、私はまだマノロ・ブラニクの靴を買っていない。
幸運なことに、周囲に社会人歴の長い、良きアドバイザーがいたので、改善点を多々指摘してもらうことができた。以来、定期的にコミュニケーションスキルのアドバイスを受けている。今では、「五木寛之の『林住期』を聞かれた時も、私がお客様の話にかぶるように(遮るように)してお答えしてしまったのは良くなかったのだ」と理解できる。
確かに個人的な物欲から始まった、ひどく単純な労働意欲ではあった。だが入社後、それ以上に得るものが多かった。
自分に起こった変化はたくさんある。しかし中でも一番大きな変化は、前述したようにコミュニケーションの仕方を自分でもう一度見直したことだった。それは一緒に働く仲間を大事にするということにつながっていくのだ、と半年前の面接で所長からお話があった。
そのことを私は今、働きながら実感している。長年、というより生まれてからずっと抱えてきた無意識の悪癖を、意識し始めて半年が経過したが、少しは改善されただろうか。所長との面接が、もうすぐある。ここに結果が書けないことが残念でならない。
私はまだマノロ・ブラニクの靴を買っていない。諦めるわけにはいかない。

*引用 『ファム・スタイル』二見書房 2007年1月

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